■ 仲宗根豊見親の墓 (なかそねとぅゆみゃのはか)
所在地
 宮古島市平良字西仲宗根

国指定文化財 指定年月日
 1993年4月20日

県指定文化財 指定年月日
 1956年2月22日

 15世紀末から16世紀初にかけて、宮古島の支配者として君臨した仲宗根豊見親が、父、真誉の子(まゆのふあ)豊見親の霊をとむらうために、築造したと伝えられています。宮古在来の”みゃーか”と沖縄本島風の横穴式の折衷様式で、沖縄本島と宮古のしげき文化の交流を裏づける代表的な墳墓です。

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■ アトンマ墓 

所在地
 宮古島市平良字
       西仲宗根3-32
   (小字・真玉)

国指定文化財 指定年月日
 1993年4月20日 

 アトンマ墓は、仲宗根豊見親墓の南方にある。忠導氏にゆかりのある墓で同氏族の継室(アトンマ)だけを葬ったことから、俗に”アトンマ墓”と称されています。 墓の様式は岩盤と切石を組み合わせた堀込み囲墓。この墓が、いつ築造されたか明らかではありません。「忠導氏系図家譜」によれば、12世玄似(1764〜1804)、13世玄陳(1780〜1840)、14世玄安(1815〜1871)、玄盛(1824〜?)らが、それぞれアトンマを迎えていますがその中で、14世玄安(13世玄陳とアトンマ金免嘉との子)は1863年から1871年まで平良ノ頭職を勤め権勢を誇った人物です。このことから、この墓が改修・整備されたのは12世玄似〜14世玄安・玄盛の頃と推定されています。

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■ 知利真良豊見親の墓 (ちりまらとぅゆみゃのはか)

所在地
 宮古島市平良字
       西仲宗根3-34
  (小字・真玉)

県指定文化財 指定年月日
 1967年4月11日

 1750年ごろ、平良ノ頭宮金氏寛富が築造したと伝えられています。”みゃーか”から横穴式にうつる様式で、西南よりに隣接する「豊見親墓」とともに、代表的な折衷様式時代を示す墓です。ツンプンの跡をのこしていて、俗に”ツンプン墓”ともよばれています。宮金氏寛富は1745年〜1762年まで平良の頭職をつとめ、杣山惣主取として大野山林に造林をはかるとともに、瓦の製造を始めたとも伝えられています。 知利真良豊見親は、仲宗根豊見親の三男で宮金氏をひらいた人。1500年、中山王府軍の先導をつとめた父豊見親にしたがって、八重山のオヤケ赤蜂征討軍にくわわり、その後、次兄祭金が4年在勤したあとをうけて八重山ノ頭職となり、かの地で没したと伝えられています。

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■ 大和井 (やまとがー)

所在地
 宮古島市平良字
        西仲宗根387

県指定文化財 指定年月日
 1992年12月18日

 宮古の人びとは古くから、うり井を中心に集落を作り暮らしをたてていました。戦後、水道が普及するまでは平良のまちにおいても同様でした。うり井は一般に上り下りの通路に石段を設ける程度で、多くは自然のまま利用されていましたが、大和井のみは全般にわたって人工がほどこされています。下部に大石をおき上部につれて、だんだん小さな石にかわり、さらに石も自然のままでなく、切り石を円形に積みあげています。その力学的な工法は、周辺の風致とともに、訪れるものに安心感を抱かせています。石造技術の粋を傾注した事がうかがわれますが、伝承によれば在番役人や頭など、ごく一部の役人が使用し、庶民には開放されなかったそうです。他にはまったくみることができない、門扉を用いたと思われるかんぬきの跡さえ止めています。

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■ 博愛記念碑(はくあいきねんひ)

所在地
 宮古島市平良字
         西里183-4
 (小字・西里)

県指定文化財 指定年月日
 1956年2月22日

 

 1873(明治6)年7月、ドイツ商船ロベルトソン号は中国福州から濠州へ向う途中台風にあって漂流、宮国村沖合で座礁難破しました。宮国の人びとは夜通しかがり火をたいてはげまし、翌朝荒天をついて乗組員8人を救助しました。その後34日間にわたって手厚くもてなし、島役人たちは官船を与えて帰国させました。のちにこのことを知った当時のドイツ皇帝ウイルヘルム一世は宮古島の人びとの勇気と博愛の精神をたたえて、1876(明治9)年3月軍艦チクローブ号を派遣して記念碑を建立しました。碑文は表はドイツ文と漢文、裏は漢文で記されている。この一帯は親越とよばれ、漲水港をみおろす丘の中腹に立てられた大理石の碑は、当時は漲水港はるか沖合からも夕日に輝いてよくみえたと言われています。

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■ 上比屋山遺跡(ういぴゃーやまいせき)

所在地
 宮古島市城辺字
 砂川1007-1
 1012、1030-1、1030-2

県指定文化財 指定年月日
 1956年2月22日

 

 琉球石灰岩の台地上に形成された14〜15世紀頃の集落遺跡。内部には数カ所の拝所と南端に「トゥンカイフツイス」と呼ばれる遺構があります。遺跡からは大量の地元産土器の他、青磁・白磁・染付・褐釉陶器などの中国製陶磁器や鉄滓等が出土しました。近くに新里元島、砂川元島、友利元島などの集落跡があり、かつてはこの一帯に人々が集中して居住していたことを示しています。中国などとの活発な交流によってもたらされた陶磁器類はこうした集落内にも行きわたっています。上比屋山遺跡は倭寇根拠地説と海外交易の中継基地説の両方が提示されていますが結論は出ていません。上比屋山にはウイピャー、キサマ、マイヌヤーなどのムトゥがあり、それらの拝所を中心として山全体が神聖化され、現在でも地元では崇拝の対象として守られています。

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■ 寺山遺跡(てらやまいせき)

所在地
 多良間村字塩川

県指定文化財 指定年月日
 1974年7月11日

 

 

 多良間村塩川部落の大道里に所在。奥武山龍洞寺の住職であった心海上人が、1697年(尚真29)から1711年(尚益2)までの14年間、この地に滞在し、村人たちに教えを説いた場所だといわれています。「とんばら」と呼ばれる岩の上に碑があり、島民の天災地変の災禍を救うために、経塚を建立したと明記されています。心海上人は、その他ウプミャーカの墓を建造するほか、運天家、富盛家に日本式の庭園を作庭したとも伝えられています。彼は沖縄における仏教史を考える上で、重要な人物で、また、彼が仏教を教導していたという此地は、沖縄仏教史はもとより、上人の住居、経塚の内容を知る上で重要です。

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■ 高腰城跡(たかうすじょうせき)

所在地
 宮古島市城辺字
        比嘉1521-3
 11、14、15
 (小字・仲尾嶺)

県指定文化財 指定年月日
 1991年8月2日

 

 高腰城跡は、比嘉部落北方の丘陵上(標高 108〜113m)に形成された13〜14世紀頃のグスクです。グスクの北東部には城主高腰按司が使用したと伝承される按司の泉(湧水)が、南方約2.2kmには高腰按司を祀ったと伝えられる高腰御嶽があります。グスクの位置する丘陵は、南東から北北西にかけて舌状に延びていて、南東部では馬背状に緩やかになっていますが、北側から南西部にかけては急崖となっています。この丘陵の西側にグスクとしての石積みが有ります。石積みは概ね隅丸長方形状で、その中に3〜4の郭(間仕切り)があり、南側には城門を持っています。グスクからは、地元産の土器を中心として中国製の青磁、白磁、褐釉陶器等とともに奄美諸島の徳之島で焼かれたものと思われる類須恵器なども出土しています。

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■ 喜佐真御獄(きさまうたき)

所在地
 宮古島市下地字
        川満喜佐真

主な祭祀
 旧暦9月 ユークイ

 

 喜佐真御嶽は「宮古島御嶽由来記」(1707)及び「琉球国由来記」(1713)に記録された由緒ある御嶽で、真種子若按司という人物を祭神にしています。
 標高約20mの丘陵上にあり拝所は石垣で囲まれ、 100m2余りの庭と石段と籠り家はクムーイウガンヤーともいい、以前は石積みの壁に茅葺の屋根であったのが、昭和初年に瓦葺に改められ、昭和27年に現在のコンクリート作りになりました。ムトゥは籠り家の正面にあって、石垣と石垣の間に1枚の平たい石をのせ、下に香炉を置く祠のような形になっています。主な祭祀は、川満の神役による旧暦2月と11月の籠り御願があります。また、旧暦2月・10月の世乞いには、この御嶽でアーグを歌います。

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■ ウイピャムトゥの祭場
所在地
 宮古島市城辺字
         砂川1030-2
  (小字・前原)

県指定有形民俗文化財
指定年月日
 1981年11月5日

 この祭場は、上比屋山遺跡(県指定遺跡)内にあります。マイウイピャー、クスウイピャー、ウイウスの3棟の家屋は篭り儀礼に用いられ、祭場内の石垣などとともによく保存されていて、宮古の村落祭祀を理解するのにきわめて貴重なものです。構造は、3棟とも側壁が琉球石灰岩の石積みで高さ 120〜 130p程度の軒の低い造りです。それぞれほぼ南向きで、内部面積30m2前後。家屋内部には北側の壁にそってイビとよばれる石がおかれ、その前に香炉があります。祭事は、マイウイピャーがウマニャーズ、クスウイピャーがサーニャプズ、ウイウスがカニドゥヌといわれています。祭神に関する由来については「雍正旧記」(1727年)や「宮古島記事仕次」(1748年)に記されています。2月篭り、ナーパイ、8月篭りなどの祭祀行事がムトゥに属する人々によって執り行われます。

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■ 友利のあま井
所在地
 宮古島市城辺字砂川137
  (小字・東表原)

有形民俗文化財
指定年月日
 1981年3月30日

 友利あま井は字砂川と字友利の境界にあって、友利元島遺跡の西側に隣接する自然洞窟の井泉です。井泉の降り口から滞水層露出面までの深さは約20mで自然洞窟井泉の規模としては大きく水量も豊か。昭和40年の上水道全面普及以前は、自然の井泉が飲料水をはじめ、生活を営む上の貴重な水源でした。水を運ぶのは婦女子の日課で、家事労働の大半をそれに費やしたと言われています。あま井に降りる石段の側壁の岩は手でささえのぼったため摩擦してしまったところが数カ所あり、当時の苦労がしのばれます。あま井については「雍正旧記」(1727年)に「掘年数不明」と記されています。明和の大津波(1771年)以前、友利、砂川、新里の各元島(旧集落)の住民が共同利用して以来、現在地への集落移動後も長く大事につかわれてきた井泉です。

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■ スムリャーミャーカ
所在地
 宮古島市下地字来間

県指定史跡
指定年月日
 1974年12月26日

 スムリャーとは長間家の事で長間家の墓ということです。ミャーカは石積み方形、平板な石でおおわれていて、その内部は2〜3の石室に分かれているものもあります。宮古のミャーカは、久松ミャーカ、スサビミャーカに見られるように長辺10〜13m位、高さ2m前後の複雑壮大なものから、比較的単純な物まで変化に富んでいます。スムリャーミャーカはミャーカの特長を具備していて、来間島では最も保存のよいミャーカで大正時代まで使用されていましたが、現在は石墓となっています。柱石に溝の跡があって上部に木造建築物があった跡があります。中央には一枚の珊瑚石灰岩の平板石がかぶさり石室は3室になっています。横9m、縦6.50m、高さ2.30m、覆石3.50m×縦3mのミャーカです。

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■ 池田矼(いけだばし)
所在地
 宮古島市下地字上地ツボヤ

県指定文化財
指定年月日
 1977年7月11日

 下地町字上地の国道際にあり、沖縄製糖工場の構内に隣接して架設されています。この矼は、当時の中央政府があった平良から久松、川満を経て洲鎌、上地、与那覇へ通ずる幹線道路にあたる場所で、下地橋道と共に架橋されたと言い伝えられています。琉球石灰岩を加工して見事につなぎあわせて出来たこの美しいアーチ型の石橋は、伝承の上では約500年、記録のうえからは260余年の歴史をもち、今日まで堅牢さを誇っています。

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■ 野原岳の霊石(のばるだけのれいせき)
所在地
 宮古島市上野字野原
 (野原岳)

県指定文化財
指定年月日
 1956年2月22日

 伝承によれば、大嶽城の城主、大嶽按司が城の守護神としてこの霊石を祀ったとされています。霊石の素材は珊瑚石灰岩でその大きさは直径 110p、高さ 135pで形は円柱形です。このような霊石信仰は他の地域でもみられ、今帰仁城跡、勝連城跡などでもいくらか形は異なりますが霊石として信仰されている石が城内にあります。また小型ですが、伊良部町の伊良部東元島遺跡にも野原岳の霊石と同型式のものが現存し、これも霊石の類とみられます。霊石は第2次世界大戦終戦までは頂上附近にありましたが、戦後米軍施設工事のため現位置に移されました。宮古古代の霊石信仰の遺跡として、また当時の石工技術研究のための貴重な資料です。

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■ 野城泉(ぬぐすくがー)
所在地
 宮古島市城辺字福里2-18

町指定文化財
指定年月日
 1991年4月9日

 福東集落の北東の海岸に沿って東西に延びている琉球石灰岩丘陵(標高約65m)に野城遺跡があり、野城泉はその南西部にあります。野城泉は、石灰岩台地(50〜67m)の裾野に湧水口の周辺を切り石積み技法によって築造された”降り井”の形態をもつ自然湧水で、現在も水量は豊富です。野城泉は、野城遺跡に係わりがあると見なされる野城按司の集団が飲料水として利用していた、と考えられています。最近は畑地かんがい用水として施設も整い、流水をためて活用されています。

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■ マムヤの屋敷跡・墓

所在地
 宮古島市城辺町
        保良1221-1
         保良970-14

町指定文化財 指定年月日
 1991年4月9日

 

 マムヤの屋敷跡は、保良元島の南方約 200mほどはなれた小丘陵に立地します。現在は周りの土が除去され、うず高くなっています。また、機織場は、平安名崎の保良漁港入り口より西方約 120mの北側岸壁にあり、畳2枚程度の広さの空洞になっています。一方、墓地は同漁港入り口より東へ約 180mはなれた休息所の隣にある巨石をくりぬいたようにして作られています。マムヤの時代については不明ですが、野城按司との悲恋を歌った「マムヤのあやぐ」や民話が残されていて、マムヤは悲劇のヒロインとして今に伝えられています。

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■ 野加那泉(ぬがながー)

所在地
 宮古島市城辺字比嘉

県指定文化財 指定年月日
 1991年1月8日

 

 野加那泉は、比嘉部落の西側およそ 500mほど離れた所にある小さな湧水です。この泉は、琉球石灰岩の切石で積まれた直径約5m、幅約4m、高さ約 0.7mの半楕円形で、その北側の三分の一ほどの高さから清水が湧き出ています。その構造は二段構えに作られ、北側は飲料水、南側は生活用水及び牛馬用に利用され、尚、使用後の水は水田用水として使用されてきました。この一帯には、昔、ヌガナガーの水を利用して栄えたイイ原里という集落があったと伝えられています。

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■ 張水御獄(はりみずうたき)

所在地
 宮古島市平良字西里8

市指定文化財 指定年月日
 1974年8月29日

 

 宮古島創世の神話並びに人蛇婚説話等にいろどられ、古代宮古人の源流をさぐる上からも貴重な御嶽です。南側石垣は目黒盛の玄孫・仲宗根豊見親(忠導氏祖)が1500年中山王府の先導で、八重山のオヤケ赤蜂征討にさいし、神霊の加護で勝利したら神域を整備し奉納しようと誓願、めでたくがい旋した戦勝記念に築いたと、忠導氏本宗家譜に記されています。オヤケ赤蜂征討は賛否分かれるところがありますが、石垣そのものは直接には民衆の労働の成果であり、当時の石造技術を知るうえでも貴重なものです。

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■ サバ沖井戸(さばうつがー)

所在地
 宮古島市伊良部字前里添

町指定文化財 指定年月日
 1975年8月

 

 前里添集落の北西の断崖下にあり、耕作をしていた二人の若者が偶然発見したと言われる井戸。昭和41年に水道が設置されるまでの230余年間、佐良浜一帯の貴重な水源でした。毎朝3〜4回水汲みに行ったという佐良浜の女達の苦労が、崖の緑を這うようにして作られている130段近い階段からも忍ばれます。

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■ 八重山遠見台および宮古遠見台

所在地
 多良間村字仲筋1097

村指定文化財 指定年月日
 1997年10月16日

 

 石材をもって積み上げ、くの字形の階段があります。人頭税時代に徴税にくる船の見張りと、外敵を見張るために造られたと言われています。建立年代は不明ですが、展望台としてはすばらしく村内や周囲が眺められます。遠見台周辺の高台を利用した自然植物園があり、遊歩道をつたって南に下ると、ふるさと民族学習館があります。

所在地
 多良間村字仲筋562

村指定文化財 指定年月日
 1997年10月16日

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■ 人頭税石(にんとうぜいせき)

所在地
 宮古島市平良字荷川取

宮古諸島は世界でも類例をみない悪税といわれた人頭税によって苦しめられた島です。慶長14年(1609年)、薩摩の琉球侵略の結果、琉球王府はその財政に窮乏し、その対策として宮古・八重山の両地方に限り寛永14年(1637年)から人頭税を課すことにしました。男女15歳〜50歳までのを対象に税が課せられ、男は粟、女は宮古上布を納めました。賦計り石とも呼ばれる人頭税石は高さ1.43mの石柱で、この石の高さ以上の背丈になると、税が課せられたという伝承もあります。この悪税は明治になっても続き、島民や新潟県出身の中村十作らの帝国議会への直接請願の結果、明治36年(1903年)になって、ようやく廃止されました。

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■ 久松五勇士顕彰碑(ひさまつごゆうしけんしょうひ)

所在地
 宮古島市平良字久貝

明治38年日露戦争の際、ロシアのバルチック艦隊が日本本土に向けて北上するのを島民が発見しました。しかし、当時宮古島には電信施設がなく、島の長たちの協議の結果、久松の漁夫5人を電信施設がある八重山・石垣島に派遣することが決まりました。5人の漁夫は小さなくり船を漕いで、1昼夜をかけて石垣島に到着。「敵艦発見」の報を東郷平八郎大将率いる連合艦隊に打電することに成功しました。顕彰碑はこの5人の壮挙を讃えて昭和41年に建立されたもので、5人の漁夫を象徴する5つの柱がクリ船を支える形をしています。

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■ 塩川のフクギ並木

所在地
 多良間村

フクギとはおとぎりそう科の一種で、昔から防風林や建築材として重宝がられました。多良間島はフクギの里と呼ばれるほど、立派なフクギが御獄(うたき)や拝所に生い茂っています。幹は直立して高さ4mから7mに達し、農作物を災害から守る防護林としても有名です。

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資料提供:宮古島市総合博物館

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